①学校に行かなくなったきっかけと経緯を教えてください
- ASDの小4男子です。小学校は通常級に在籍し、ほぼ無欠席で通っていましたが、1年生の秋頃から集団行動の難しさが顕著に表れるようになりました。2年生から支援級に転籍したものの、一人では登校できなくなり、毎朝教室まで付き添いました。
本人は「行きたくない」と言葉にはしないものの(言わせない圧力があったと思う)、教室に入れなかったり、激しい癇癪、自傷行為、「死にたい」「自分なんかいなくなればいいんだ」といった発言が増えていきました。
3年生の前半は月に1~2回登校していましたが、つらそうなので、腹を括って登校刺激は一切やめました。今は完全不登校です。小学校にはもう行かないし、中学も通うつもりはないと言っています。 - 2歳児に保育園に入園した時から、集団ではストレスが強い子で、その時点からいずれ不登校になる子だろうと思っていました。保育園もずっと行きしぶりしていたけど、年中・年長はだいぶは通えるようになっていて、就学前の準備で小学校に見学に行ったら、人数の多さ、先生の声の大きさと、しゃべり方の怖さ(保育園の先生みたいに雰囲気が優しくない。)、廊下が音が響くなどで、恐怖で一杯になってしまい、少人数の支援級を希望しました。支援級の体験で、先生が生徒に厳しく指導するのを見て、そのあと猫なで声で話しかけられるギャップにドン引きし、その日から母子分離不安状態となり保育園も卒園まで不登園でした。何とか小学校入学時は手厚い支援の下通い始めたものの、学校の理不尽、先生が厳しすぎる、勉強の時間が長すぎて遊ぶ時間がない、他の普通に何でもやれる生徒に劣等感を持つなどなどなど、何がきっかけかもはやわからないけど、行けなくなりました。きっかけがどれなのかわからないけど、学校は全く娘にとって安心できる場所じゃないとしか言いようがないです。
- 現在中1で、小1の夏休み明けから行き渋りが始まりました。
小学校入学までは家で過ごしていたので、入学してすぐに運動会の練習が始まったり、授業中ずっと座っていたり、偏食があるので給食で食べられないものがあったり、校内で道に迷ったりと、忙しかったり不安だったりが多かったみたいです。
これという明確な理由は、本人もわからないようでした。
その後、登校したりしなかったりを繰り返しながら過ごしました。その間、だんだんと表情が暗くなり「学校に行かなきゃいけないなら死んだほうがマシだ」と言うまでになり、親もとても不安でした。2年生の始業式の日に、高熱を出したのをきっかけに、「しばらく自宅で休ませます」と学校に伝え、そこから現在まで完全不登校です。
中学は「家で過ごすから行かない」と、親子で納得して決めました。
- 小学校入学後、ストレスのかかる環境への過剰適応により強迫性障害の症状が出るようになってしまった。その後学校の中に入らなくなり、子供の姿を見ると逃げ出すようになり、家に引き篭もるようになってしまった。ASDとADHDと診断され、こだわりの強さ、感覚過敏、集団が苦手、気が乗らない事をすると疲れてしまう、社会不安などが見られて自宅で療養しています。
- 小1の頃、先生が怖い、先生の言っていることがわからない、給食当番ができるか不安、などと言っていました。夏休み明けから徐々に行けなくなり完全不登校になりましたが、2年生に進級したタイミングで再登校、担任に恵まれ1年間行けました。3年生になり専科の先生に叱責されたことがきっかけで再び不登校になり今に至ります。
- すみません、長いです。
小学1年生6月から行き渋りが始まり、5年生9月から完全不登校となりました。
行き渋りのきっかけとしては色々あると思いますが、まず入学式の翌日に「自分で名札の安全ピンを留められなかった」ことへのショックがあったと思います。
帰宅後、玄関へ入るなり「今日、自分で名札をシャツに留められなかった!きっとしゅん(自分の名前)は何もできない!どうせきっと何もかもダメに決まってる!!」と突っ伏して激しく泣きました。(息子は指先が少し不器用なので、怖かった私は、就学前の息子に安全ピンを触らせたことがありませんでした)温厚で癇癪などほとんど起こしたことのない子だったので、その激高ぶりに大変驚き、必死で慰めました。
また、1年生の担任の先生(50代の女性)は毎日怒鳴っている(というより吠えている感じで大人も怖い)のが学校の外まで聞こえ、帰りの会では必ず1~2人「今日、悪いことをした子」を立たせて皆の前で怒る、ということをしていました。
最初の保護者会では「授業中に便意を催すと授業が滞るし、休み時間は5分しか無いので、家で大便をさせてきてください」とも言い、息子も登校前に「あっ、トイレ行っとかなきゃ。先生に怒られちゃうから」と言っていました(便意までコントロールしようとすることに対して、私は刑務所に子どもを入れた気がしました)。
その後、梅雨に入る頃から「学校行きたくないよ~ランドセル重いよ~」 「つまらないよ~つまらないよ~」と言って泣き、「お休みしていいよ」と私が言っても「いや、しゅんは、夏休みまで休まず行くって決めたから…」と言い、ふぅふぅ言いながら玄関を出ようともして、親子ともに混乱を極めました。
息子は 「次は自分が先生に怒られるかもしれない」と常に怯えていて、また、先生に怒られる子に対して「〇〇くんのせいで授業が進まない、帰る時間が遅くなる」などと不満を言うようになったので、私たち夫婦は、年度末に校長・副校長先生と面談をし、現在の担任が次年度に持ち上がりで担任になることを避けていただくよう申し入れました。(その後、その先生は3年間クラスを受け持つことがなく早期退職されました)
学校のSCや民間の不登校支援センターに相談にのってもらいながら安定して登校する時期もありましたが、5年生の夏休み明けからは完全に不登校となりました。
5年生の夏休み、本人は好きなように過ごそうと思い、学校の宿題のほとんどを終業式の日と夏休みの初日の2日間で片づけました。
信州へ子どもだけのキャンプへ行くなど(ここではスケジュールのほとんどを子どもたちが話し合って決める)、遊び三昧だった息子は、2学期の始業式の日は出席したものの、翌日から全く登校できなくなりました。
完全不登校となってからの息子が言うには、「規則や禁止が多く、何一つ自分の意志やスピードで自由に進められない学校にとうとう限界が来た。幼稚園の時は楽しかった記憶しかないが、小学校は入学式の日に校門をくぐった瞬間、異様な違和感がビリっと電気のように走った。すでにその時から学校に拒否反応があった」とのことです。
家庭的な問題としては、母親の私が過干渉だったと思います。中学受験の塾にも通いましたが(こちらは父親の希望が強い)多動傾向がある息子に90分の着座と膨大な量の宿題は無理でした。3か月ほどの通塾でしたが、本人はとても辛かったと言っています。現在の勉強への拒否反応と無関係ではない気がします。
夫婦関係もギスギスして、子どもが安心できる家庭環境ではなかったと思います。
- 小3の3学期から疲労を理由に休むことが月1回ほどありました。小4始業式にクラスメートから「また一年同じクラスか、残念」と言われたのをきっかけに翌日から突然完全不登校に。おそらくこの発言だけが全ての原因ではなく、それまでも本人の特性からくる困りごとがあって、最終的な引き金となったのだと思います。
- 習っていた武道の試合直前に腹痛などの不調を感じ、当番のお医者様に「気持ちの問題」と診断され、気力を振り絞って出場したのが良くありませんでした。徐々にチックが出始めて道場に入れなくなり、1か月後ぐらいには学校も緊張して気分が悪くなると登校できなくなり、パニック症と診断されました。
- ◎クラスでからかってくる子がからかいを辞めず、担任と3人で話し合いの場を設けてもらったが、陰でのからかいが消えなかった。相談をしてその子が叱られる場面はみたくないので先生には言いたくないと言えなかった。
◎先生が大きい声が出るタイプで「高学年らしい振る舞いをしよう」と毎度言われるのが苦痛だった。
◎中受塾に嬉々として行っていたが、学年が上がると難しくなりこなしきれない量を日々やらなくてはならず、クラスが上がったところで力尽きてもう何も手につかない、出来ないと言い出した。そのまま学校も無理と言い始めた。 - 今、小6娘です。小4の5月に、クラスの子と揉め事があった時、担任から「あなたは我慢してないから我慢した方がいい」と言われたのがきっかけで完全不登校になりました。それまでも、よく考えると、年長の時に「クラスの子が注意されてるのを見るのが辛い」「泊まり保育に強引に置いて行かれたのは恨む」と集団生活の辛さを言ったり、小学校低学年でコロナ禍で、「ルール守らない子がいるのにどうして私は守らなきゃいけないの」「学校無いのにただ宿題する事だけはしたくない、楽しむ為に学校行ってるのに」と、本人の考えと現状とのズレで辛そうだったり、なかなか嫌と友達に言えない反面もあって特定の子からいじめられて親が介入する事は積み重なっていました。
- 小2の時、ひっ算の引き算の授業中、間違えたことを指摘されて教室から出て家に帰ろうとしました。
そのことがきっかけで、新担任と息子は合わないことが分かりました。
何度も話を聞いてもらいましたが理解されず、息子に心身症の兆候が見られるようになったので学校へ行かせないことにしました。 - クラスに馴染めずトラブルも多く教室で過ごせず大半の時間を図書室で過ごすようになっていた頃、教室へ戻るように先生に促されたところパニックになり暴れてケガをした事がきっかけでした。
- 最初は給食の匂いを嗅ぐと気持ちが悪くなると言い始めました。
給食は残してもいいよと親からも先生からも声をかけてもらったりしましたが良くならず、そしてだんだん朝も吐き気や腹痛がするようになりました。
登校してしまえば帰りは元気に帰ってくるので、しばらく朝はなだめたり説得したりして送って行きました。
ある朝昇降口の前で「気持ちが悪い」と泣いて座り込んでしまい、もう送って行くのはやめ、不登校になりました。
本人は学校の何かが嫌とかは無く、なぜそういう症状が出たのかわからないと言っています。 - 友達とのトラブルを先生に相談したが、本人の納得がないまま解決したとみなされて放置された。一緒に登校していた子から、登校時にからかいを受けた(相手は姉弟だったので、1人で対応することが難しかった。最終的に謝りに来てくれたが、事実確認の過程では嘘もつかれた)。足を痛めているなか、無理な授業参加(体育で走る、地域を歩く課外活動)や習い事があった。「休んでもいいよ」と声かけたが、本人はしんどいのに休むことが出来なかった。弟の入学により、環境に変化が生じた。いろいろなことが重なり、「学校に行きたくない」と起きられなくなってきた。友達とのトラブルについては親から先生に相談をして、本人も交えて話し合いをしたり、朝、担任が迎えに来るなどして、なんとか休みながら2ヶ月ほど登校を続けたが、本人のストレス症状が強く当面休むことにした。
入学直後から、「給食を食べていない」と担任から報告があった。苦手なメニューを飲み込めなくて出してしまったのを、隣の席の子に「またぁ?」と言われて怖くなってしまった。下校時に、本人から途中まで迎えにきてと言われた。ランドセルを背負って1人で帰宅するのが相当疲れるようで、母親に荷物を持たせていた。字を書く宿題で、うまく書けないと癇癪を起こしていた。授業中も何度も書き直していたらしく、書き直しになることに強い拒否反応を示していた。とても歩いて登校できず、ほぼ遅刻して車で送迎していたが、なかなか車から降りられなかった。先生が迎えに来たり、保健室で過ごしてから教室に入っていた。どんどん行き渋りが激しくなり、家の中でも籠城していた。なんとか車に乗せて学校に向かうも、「お腹が痛い」と言うようになり、休むことを決めた。 - 小5の夏に摂食障害になり、そのまま不登校になりました。
- きっかけはコロナ休校でしたが、それまでに様々な困難(集団が苦手、一斉指示が通りにくくクラスメイトから遅れる、読み書き困難のため授業についていかれない)を抱えていたことが本当の原因だったと思います。
- 22年1月に妻が亡くなり、22年の小学六年で2ヶ月を2回休みました。
中学1年の5月から2年の今日まで不登校です。
カウンセラーと話をしていくなかで、息子は人に気を遣うことが多く、妻も心配していましたが、息子のストレスを妻がうまく撮っていたと思われ、妻が亡くなってしまったためにストレスを溜め込んでしまったのではないかという話がでました。
父親の私ではうまくストレスを取ってあげることができませんでした。
- きっかけは小2の担任と給食だと本人が
言っています。幼稚園入園前から食べられる
物が極端に少なく、お弁当の内容は3年間
同じ物を持たせていました。小学校に上がる際に給食について先生方に相談をしたの
ですが、みんなが食べていれば本人も
受け入れて食べますよ、とあまり気にせず
行きましょうと言われたのみでした。
1年生の時は苦手な給食をなんとか
頑張ってきましたが、2年に上がり担任が
かわり、これまで許してもらっていた
食べられる量だけ食べていたものを
全て完食するように強く言われるように
なりました。他にも外遊びが苦手で
休み時間を教室で過ごしていたのも
注意されるようになり、学校が辛い
と思うようになりました。
私が学校に相談に行くと子供は良く
食べて外で元気に走り回るのが普通
だと言われました。担任は新卒の
男性教師です。全く話し合いにならず
スクールカウンセラーと校長に相談
して学校へ通う事をやめました。 - 担任が発達の特性への理解に乏しく、定型発達の子と同じように読み書きできるように指導され続けて力尽きてしまった。
- ・幼稚園からのお友達が同じ小学校におらず、新しくできたお友達が社交的な子だったので、「他の子と遊んでる」と寂しさを感じていたようです。警戒心がとにかく強かったです。
・皆と同じ事をするのにストレスを感じ、頑張っていましたが聴覚・嗅覚過敏に。壁の無い教室は苦痛だったと思います。
・チャイムの鳴らない学校で、外で遊んで教室に戻る時間が遅れてしまい、それ以降休み時間は教室で本を読んで過ごしていたそうです。(本来は走り回るのが好きなのに。)過剰適応していました。
・偏食の為、給食が楽しくなかったので、学校に楽しみがなかったようです。
・先生に恵まれなかったのも大きいです。
②「勉強をしなかったけど、今はやるようになった」という方がいれば、どのように勉強をするようになったかを、しなくなった時期(年齢や学年)とするようになった時期をご記載の上、教えてください。
- 学校に無理無理通っていた時期は、ストレスで学習どころではなかったです。『もう学校には行かない。』と本人が決めた時に、学校には行かなくてもいいから家などで勉強しようと決めて、それからは決まった量の学習はコンスタントにやれています。
- 登校している頃は、漢字の宿題を毎回泣きながらやっていました。宿題を出さないという選択肢はないようで、泣きながら消しては書くを繰り返して、なんとか提出していました。
完全不登校になった2年生の終わりから、ほとんど教科学習はしていません。とにかく「教えられるのが嫌だ」といい、教科書を開くと癇癪がひどかったので、親も学習については言わなくなりました。教えられた方法かつ、決められた方法でしか解いてはいけないとか、わかっていることを何度もやらなくてはいけないとか、漢字を先生のように上手に書けないことなどが嫌だと言います。
それが、小6の中盤くらいから「中学生になるまでに、小学生の勉強を終わらせる」といい、自分で決めた学習内容を毎日やるようになりました。漢字は3年生までのドリルをやったけれど、「漢字を書くのは嫌だ」となったようで、算数に切り替え、宣言通りに6年生までの算数ドリルを春には終わらせました。怒りながらやっている日もありました。
その後、中学生の教科書で英語以外の4教科を毎日2ページずつやると、自分で決めて進めています。
引っ越して、安心した環境に身を置いたからか、憧れの中学生になったからなのか、理由はわかりませんが、彼の変化に親は驚くばかりです。
- 小16月より勉強はしていません。
- 不登校になった小1の頃は勉強拒否が強く、何も手につかない状態でした。その後も勉強嫌いは根強くありましたが、算数と漢字はなんとかやっていました。小3の秋に通い始めたフリースクールの先生との出会いが転機となりました。私が口を出すと喧嘩になると言うと、勉強面は丸投げしてくださいと言ってくださり、本人の気持ちを尊重しつつも勉強はするものだよと淡々と伝え続けてくださり、初めは勉強が嫌で行き渋っていたのが、1枚だけできるようになり、2枚になり、半年かけて少しずつ本人が自信をつけ、最近はどんどん先に進められることを楽しんでいるようで学校よりも先に進んで勉強しています。小3秋といえばブランチに入会した頃で、その頃から息子が毎日ブランチのお友達とのやりとりが楽しそうで機嫌が良く、エネルギーレベルがアップしたなと感じています。ブランチのおかげもあると思っています。
- 完全不登校になり1年がたち、少しずつbranchに参加したり、ごくたまに外出できるようになっていました。また、ある日、本人が漢字を練習したような紙が落ちており、どうしたの?と聞くと「ひまだったから、ちょっと調べて書いてみた」と言うことがありました。本人も勉強していないことに多少心配なのかなと感じました。小5にあがる4月に、課金目的だと思うのですが「進級祝いがほしい」と言い出したので、「進級するっていうならちょっと学習もやってみる?」と提案したところ、いいよとのこと。いまは漢字と算数だけ、1日5-10分程度、サボることもありますが、なんとかやっています。
- 3歳時点で療育や児童精神科の先生たちから将来不登校になりやすいと言われていたため、小1から家庭学習の習慣を付けました。最初は泣いて抵抗され、自分から机に向かうようになるまで数年かかりました。
- 「やるようになった」の回答ではないです。
小6卒業までは学校のカラーテストとスマイルゼミを強制的にやらせました。出来ていたが本人はやる気がなく、中学生になる段階で全て手をつけなくなり、いっさいノー勉でまだ復活していません。
- 学校を休み始めてから、学校のドリルをさせたり、スマイルゼミやYouTubeを使って勉強させようとしましたが、小中学校時代はどれも長続きしませんでした。
この春、高校に入学してからは「一日1ページやるんだ!」と自らレポートに取り組んでいます。
最初は登校するだけでも大変だったと思うのですが、下校中に買ってきたおやつを食べたり、YouTubeでBGMを聞いたりしながらリビングで勉強しています。 - 小学4年秋から不登校になって勉強らしい事はは全くしていませんでした。
小学6年の冬ごろ遅れを取り戻したいとの事で勉強を始めましたが、その時はあまり続きませんでした。
中学2年に進級するころ『このままだったら卒業後にどうなるのか』と本人が主治医に不安を話したところ、高校への進学を勧められ、それなら勉強しなくちゃという気持ちになったようです。
ただ、どうやって取り組んだら良いか分からないとの事だっので一緒に続けられそうな方法を模索しました。家庭教師や塾などは嫌がったので小学4年の教科書を使って一日30分だけと決め算数の復習から始めました。これは何とか現在まで継続できており、つい先日小学6年の算数が終わりました。
6月からは千葉県の不登校児対象のオンライン授業が始まったので、これまでに数回参加しました。 - 勉強は公文式の数学だけ続けています。中1になり、定期テストをやることになり、はじめて自分から他の科目を勉強しました。
- 不登校から学校復帰したものの、1年間(2年生時の1年間)は教科学習はほとんどやりませんでした。学習までエネルギーが回りませんでした。その後3年生になり支援級で本人の負担の少ないやり方と進度で少しずつ進めるようになりました。読み書き困難があるので、文章は読み上げてもらう、代筆してもらう、デジタル教科書で学習する、読み書きより理解を優先するなどで進めています。
現在、実際の学年からは3年ほど遅れていますが、個別指導塾も併用して本人のペースで学習しています。個別指導塾は、本人が「自分は集団が苦手だから1対1がいい」と希望しました。指定の教材のない塾なので、学校の教科書を使っています。 - 勉強をしなくなった時期は、不登校になってすぐの4年生の2学期です。休みはじめて2週間くらいは宿題をやっていましたが、授業を受けてないので問題がわからなくなりやめました。
再び学習をしはじめたのは、6年生の夏頃です。自分から「宿題やる」と言って、春休みのドリルを開きました。「お母さんと一緒にやりたい」ということで、しばらく一緒に頑張りました。YouTubeをみせたり、教科書をみたり。四苦八苦しながらやりましたが、仕事が忙しくなってしばらくお休みに。秋ごろに、不登校支援のオンライン学習があることを思い出し、娘も一緒に面談し、申し込みました。なかなか担当の人が見つからず、その間は夫が声をかけて学習に取り組んでいました。年が明けて担当者がみつかり、そこから週一回、一緒に学習しています。 - 小2で勉強しなくなりました。当時は分かりませんでしたが、視力はあるけど見えてない状態なので読み書きで辛い思いをしたのと、学校で他児からの心無い言葉を浴びたことにより、一切の勉強を拒絶していました。小6になり進路を考えるようになり、通っていたフリースクールの先輩方(通信制の高校生)がレポートを頑張る姿を見て、少しですが勉強するようになりました。
③「不登校後家から出なかったけど、今は外に出るようになった」という方がいれば、どのような経緯やきっかけで外に出るようになったか教えてください。
- ほぼ引きこもりに近い生活ですが、映画やイベント、オフ会、旅行など、本人が興味のあるものであれば、外出できるようになってきています。(逆に言うと、興味関心がなければ断固として出ません)
親から「たまには外に出ようよ」「一緒に散歩しよう、気持ちいいよ」などと声を掛けても、大体拒否されます。
なので、子どもが興味を持ちそうなネタがあればさりげなく話題に出しつつ、でも外出は強要しない、家にこもっていることも否定しない、という風に意識していました。まずは、今の自分の状態を親が認めてくれているという安心感からかなと思います。
ふとしたきっかけで外出する時もあります。「またそんなYoutubeばっかり見て…」とあきれていたら、そのグッズや漫画があるらしいと知り、「買いに行きたい!」となって、翌日すぐに出掛けたり。内発的動機づけ、というやつでしょうか。いつもはだら~んとしているのに、そういう時は身支度や行動がテキパキしていて、かわいいなぁと思います。「本人が出たいと思ったら出るんだな」と、少し安心しました。
- お気に入りのメンターさんと会うために、Branch roomに月1ぐらいで通うようになった。ごくたまに外食の希望で外食することがある。
- 引きこもったり外が怖いと言ったことは一度もありません。
- 1年近くほとんど外出できず、外からの人も受け付けなかったのですが、branchメンターさんとオンラインで定期的に遊んでもらったり、少しずつBranchに投稿したりするようになったころ、本人から自発的に「スキーに行きたい」という発言あり(以前に行って楽しかった思い出があったため)、実際に行くことができました。
いまも家の近所を歩くことはできない(誰かに見られると嫌だから)のですが、車で外出し、家から離れたところであれば歩いても大丈夫にはなってきました。 - 一番効いたのはエビリファイを飲んで不安感、緊張感を取り除いたことだと思います。そのほかピアノの先生がご自分のお子さんを連れて遊びに来てくださったり、スポーツ教室のコーチや幼馴染が遊んでくれたのも外に出る自信になりました。
- はじめは学校の時間は家にいることが多かった。キッズケータイを持っていたので、「もし誰かに学校どうしたの?とか声を掛けられたら親から許可をもらっていて、親と話をしてくださいと私に電話をかけてきたら良いよ」と話したら行きたいところに勝手に出かけるようになりました。
- 夜だけ、車で出かける事は不登校当初からしてました。昼間に出られるようになったのは、Branch に入って、学校の時間帯にゲームしてる子たちがサーバーにいるのを目にする事から始まり、自分以外にも学校行ってない子がいると知った事が経緯としてあります。自分は学校行ってなくても勉強してなくても、人と関わる事がんばれてる、だから、昼間に出ても別にさぼってる訳じゃない、と自分を肯定出来るようになっていったようです。そして、昼間に、どうしても大好きなチャーシュー麺が食べたくなって、材料を買いに行ったのが、平日昼間に車で出かけられた経験になりました。
- 家以外の居場所を求めて、フリースクールの見学に行っていました。
小6の時に見つけた場所は大好きなswitchを持ち込めたので、お守り代わりにして通い始めました。
中2の時にはじめてそのフリースクールで友達ができ、その子の家に遊びに行ったり、ボーリング場へ行ったり、フリースクールの遠足でディズニーランドにも行くことができました。
もうみんなフリースクールから卒業しましたが、今もLINEでつながっていて遊んでいるようです。 - もともと出かける事は好きだったのですが、コロナきっかけで強迫性障害の症状も強くなり外出を怖がるようになっていました。
- コロナが落ち着いて来た頃、やる事がなく時間を持て余していたので、好きなアニメのイベントやふだん聴いているアーティストのライブなどに家族が誘ってみると「ちょっと行ってみようかな」と少しずつですが外に出るようになってきました。
- 料理が趣味になったので、食材を買うために外出するようになった。ポケモンGOにはまり、ポケモンを捕まえるために公園などに出かけるようになった。(いずれもブームが去り、今は再びお家生活になっている)
- 時間がたち、本人にエネルギーが溜まったということと、中学の途中で学区外に転校したことも大きかったと思います。近所で会うかもしれない中学生=他校の人、となったことで、精神的に余裕が生まれたようです。
- 今年の元旦から深夜のドライブを通じて外に出るようになりました。
最初は単に外に出たかったのかなと思っていましたが、最近は話をしたいのではないかと思っています。
車の中という狭いスペースで話に集中して欲しいのではと思うようになりました。
この話もカウンセラーと話したときに、息子も父親との関係を1から作っているところではないかとのことでした。
- 最初は家の中でも、リビングのテーブルの下でタブレットをみて過ごしていました。庭にすら出れず、テーブルの下でほぼ一日を過ごす毎日。テーブルの脚に布を巻きつけて視線を遮断してあげると、毎日快適そうでした笑。今思うと、目から入る情報が少ない方が、安心して過ごせたのかも…と思います。
完全に自宅に引きこもって6ヶ月くらいして、私の実家だったら、月1回くらい行けるようになりました。その後も、病院への通院など、目的がハッキリしていることであれば、気が乗らなくてもなんとか行けるように。今はアニメイトなど、趣味のお出かけにも行けるようになりました。
- 学校へ行くのをやめてからは適応指導教室
に通っていたり、私と一緒に外出する
事はできていましたが、ロシアの軍事侵攻
がきっかけで外出する事ができなくなり
布団からも出られない時期が1ヶ月ほど
ありました。その時期はニュースを見て
動向を気にしていたのですが、一緒に
見ながら話をして不安を取り除くよう
務めました。起きている事は事実だけど
自分の周りで起きている事ではない
から、これまでと変わらない生活を
送っても大丈夫だと伝え、少しずつ
外出できるようになりました。 - 近所に仲の良い同級生がいて、その友達と遊びたいという気持ちから外に出られるようになりました。
- 好きな事に関しては遠くても外出出来るようになりました。
先ずは好きなコーラを買いにスーパーへ。
好きな映画を観に映画館へ。
好きなカードゲームのカード探しにショップへ毎日通い、後にカードゲーム大会に参加。
お友達に会いに、師匠に会いに…
最終的には、ゲーム大会に参加する為、ロンドンへ行く事ができました。
今も用事が無いと外出は難しいけれど、楽しんで外出する機会が増えました。
④「一度不登校や行きしぶりがあったけど、今は学校に行っている」という方がいれば、学校に行くようになったきっかけや経緯を教えてください。
- 学校に行けなくなってから1か月後くらいからエビリファイを飲み始めました。不安や音声チックが少しずつ減り、落ち着きも出るなど本人に合う薬でした。回復に合わせて学校で保健室登校など細やかなバックアップをしてくださり、不登校になってから3か月くらいで教室に入れました。無理をすると症状が悪化するため、発症後半年現在は1日に1時間程度登校しています。
- 高校進学がきっかけです。
「ずっと学校へ行ってなかったので、学校生活を送ってみたいです」と面接のときに話していました。 - 家庭で話の流れで修学旅行が話題になった時に『小学校の修学旅行に行きたかったなぁ』と息子が悲しそうに言ったので、『中学でも高校でも修学旅行はあるよ』と伝えると、中学入学後も全く登校しようとしていなかったのに突然『明日、学校へ行ってみる』と言い出しました。
すぐにソーシャルワーカーさんに連絡して、担任と個別で会えるよう手配してもらいました。
月に1回の登校から始めて少しずつ頻度を上げ、今は週に1回の登校を続けています。 - 中学で別室登校ができることがわかり、別室で誰にも会わずにすむため、行くようになった。
- 転校しても不登校状態は変わりませんでしたが、通信制の高校に入学してからは、ほぼ毎日通っています。不登校経験を友達同士で話したり、中学校でできなかった経験をしたりと、楽しいそうです。
- 普通級から支援級に転籍し、少人数で落ち着いた中、担任に手厚く支援してもらえる環境が整ったことで、再登校できるようになりました。
数年間安定した状況でしたが、今年度は息子と特性のぶつかり合うお子さんと同じクラスになったことで、彼にとっての環境が整わず、環境が整うまで登校しないと自分で決めて休んでいます。環境が整えば通うとのことです。現在、学校側からはクラスの再編も視野に入れた対応策を提案していただいています。
環境調整はほんとうに大切だと感じています。 - 4年生の2学期から完全不登校で、2年半ずっと家で過ごしました。小学校の卒業式も欠席しましたが、中学校の入学式には出席し、そこから登校しはじめました。
小学校時代は「同級生や知ってる子に会うのが怖い」と言っていたので、中学校は別の学区か、在籍だけでフリースクールもあることは伝えていました。いよいよ6年生の12月には学区の中学の制服注文の締め切りが迫り…。進学先を決める必要があることを伝えると、学区の中学を選択しました。同級生に会うのが怖いのに、ほぼ同じメンバーが進学する中学を選択したのは意外でしたが、勉強をはじめたのも「みんなに追いつきたい」という気持ちからだったので、友達と同じ場所に戻りたいと思っていたのかもしれません。
娘が自分で選択したこともあり、進学する中学に本格的に相談したのは2月ごろ。その時中学校の校長から、「いろんな繋がり方があるから、娘さんにとって良い方法を一緒に探しましょう」という内容の言葉をもらい、そのまま娘にも伝えました。それが娘に届いたのか分かりませんが、入学前の家庭訪問もすんなりOKでした。娘も緊張しつつ先生に会い、入学式前日に学校見学に行くことに。式の前日夕方、中学校に近づくとやっぱり怖くて車から降りられず。先生たちが車の外から話しかけ、学生玄関だけチラ見して帰りました。そんな感じだったので、入学式に出席するのは難しいと思ってたのですが、娘は前日の夜に準備して早く寝ました。入学式当日も早起きし、制服に着替えて朝ごはんも食べて。「行く」というので、ちょっと早いけど車で昨日の場所に駐車し…。学生玄関には在校生、新入生、先生など人がたくさんいたのですが、自分で車から降り、玄関にひとりで歩いて行きました。入学式も他の生徒と一緒に出席し、教室でみんなで記念写真を撮り、晴れやかな顔でその日を終わりました。その次の日からも登校し、5月中ごろの宿泊研修までは頑張って行きましたが、その後は休みながら登校している感じです。今は週1〜2回くらいの登校ペースになっていますが、今後はどうなるかわかりません。
- 今は小学4年生で週2、3日ほど選択登校しています。昨年秋、支援級の先生から「3年生だけでゲームするので来てみない?」と声をかけていただいたのが最初のきっかけでした。仲の良い友達と一緒に過ごしたのが楽しくて、休み時間だけ登校する日につながりました。
- 小学校は不登校でしたが、中学は遠方の支援級に入級して、知り合いのいない学校で手厚い支援を受けられるようになったため、少しずつ通学するようになりました。ただ、入級するために必要な学校側との様々な話し合いでは大変な苦労をしました。不登校なので学校との接点も少なく、理解の無い役所手続きのような輩に見下した態度をとられる等、無駄に傷つけられることも多く、親は相当な覚悟が必要です。そのようなことが今後は起こらないよう学校も役所も変わってほしいと強く願っています。
⑤その他①〜④に無い内容でも、社会復帰したようなお話があれば、どんな内容でも良いのでそのきっかけと経緯を教えてください(フリースクール行くようになった、メンターになった、相談先ができた、お医者様と話すようになった、などなど)
- 学校に無理に通っていた時期が一番つらかったですが、学校に行かないと決めて、居心地の良いフリースクールを見つけて、これで大丈夫と思えてからは、すごく穏やかになりました。
- 同年代の子は苦手意識があり、関わろうとしないが、Branchで、好きなゲームを一緒に楽しんでくれるメンターさんと遊ぶことを楽しみにしている。
- 2度目の不登校になった当時は本人も落ち込み、親子共に元気がない状態が続きましたが、半年経ち、もうしばらく学校には行けないなと私が腹を括り、学校以外の居場所を探すようになりました。子どもと見学に行ったフリースクールの先生が、繊細な子のことを深く理解してくださる方で、会ってすぐ、ここに行きたい!と子どもが言ったので入会しました。同時期にブランチにも入会しました。そこからどんどん息子も私自身も元気になっていった感じです。
- このあたりはまだなので、他の方のお話をぜひ聞いてみたいです。
- 好きなゲームの話題に執着してクラスメイトや学校の先生に迷惑をかけていたのですが、branchでゲーム欲が満たされたおかげで学校での人間関係が多少改善されているようです。
- 先日もお伝えしましたが、本人念願の2泊3日の修学旅行に参加できました。
少しずつ外出しているうちに、ずっと怖がっていた人混みを、薬の力も借りながら怖がらなくもなってきました。 - 現在小6完全不登校です。
小4の2月からBranchに入ったのですが、メンターさんとの関わりや、好きな事が一緒のBranchのお友達と遊んだり関わり合う中で、Branchが子どもにとって安心できる居場所になっていきました。
子どもを見ていて、そう感じるようになった小5の1月頃に、Branchで好きな事をする時間を保証してあげれば、この子は外界とも繋がることが出来るのではないかと思いました。
それまでにいくつか子どもに合いそうな場所を探していたので、こういう場所があるんだけど、一緒に見に行ってみないかと提案しました。子どもにとっても良いタイミングだったようで、すんなりいいよと言ってくれたんです。実際に見に行ってみると、「ここなら行ってみたい。」と嬉しそうに話してくれました。そしてその時に、「ここへ通うようになっても、Branchで遊べる時間は必ず確保するからね♡」と言葉にして伝えました。子どもはその時から今現在も、毎日その場所へ通っています。いじめにあったり、学校の先生の無理解に苦しんで、絶望を感じた時期もあったと思います。そんな時に出会ったBranchは「人生は捨てたもんじゃない」と子どもに思わせてくれました。心から感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。これからも宜しくお願いします! - ロシアの軍事侵攻から少しずつ外出が
できるようになった頃、在住の練馬区が
施設の運営を委託している、中野区の
フリースクール翔和学園の学校公開に
招待された事がありました。
いつもお世話になっている先生は
翔和学園から来ている先生だったので
鉄道好きな子が多いから是非と声を
掛けていただき、沢山の鉄道好きさん
たちとお話しをしてきました。
その中に鉄道写真を見せてくれた
お兄さんがいて、沢山のすてきな写真
を見た息子が俺も撮りたい!と
強く興味を示し、中古カメラを購入。
そこから写真が撮りたいがために
一人で外出ができるようになり、
写真を見てもらいたい気持ちが
Branchに繋がっていきました。
昨年の9月からは小田急電鉄のフリー
スクールに通っています。そこでは
Branchのりゅうくん、go君とも一緒
なので、仲良くしてもらっています。
人との繋がりが広がっていく事で
息子の世界も広がっていると思います。 - ゲームの師匠と出会い、信頼関係を築き、一緒にゲーム大会へ出場するようになりました。
そこで結果を残し、強者としてゲームイベントや企業研修、通信制高校の授業参加等、師匠の紹介で色んな場へ呼んでいただき、参加する事ができています。
⑥「不登校状態がなくなった」or「社会復帰をした」今から振り返って思うと、不登校中の子どもへの対応でやってて良かったことを教えてください。
- いずれ不登校になるだろうと思いながら、無理に学校に通っていた時期にも、本人の行動については、毎日、取れうる選択肢を提示した中から自分で選ぶ、本人が言ってきた希望を極力だいじにする、という、本人を尊重する関りを続けてきました。なので、一通り学校文化に触れたうえで、自分は学校にいかないと自分で決められたので(いけなくなってしまったというのではなく、じぶんで「学校には行かない」と決められたのがよかったな。と思っています。)迷いがなく、健やかだと思っています。不登校ではありますが、今は本人にとってすこやかな状態なので、社会復帰しているといえないかもしれませんが書きました。
- 小1の頃から、学校を休んでいることに罪悪感を持たせないように、平日の昼間でも堂々と子どもと一緒に外を歩いたり、遊びに出かけたり、近所の人に挨拶したりしていたこと。
- 大変だと閉じこもりがちになりますが、思い切って学校など関係先に現状や困っていることを打ち明けたため、アドバイスやサポートをいただけています。
- 自分自身のメンタルを整えること。
子どもがやりたいことだけでなく、やりたくないことも受け入れてサポートすること。
不登校になった直後、娘は自分の気持ちを外に出すことができなくなっていたので、「嫌」と言ってもいいんだよ、と何度も伝えました。
最初は「わからない」ばかりでしたが、「わからないことが分かったね」と確認し合っていました。
今は自分の気持ちをはっきり言えるようになってきています。 - まだまだ社会復帰をした状態と言えるのか分かりませんが、全く外出したがらなかった時期に特に気を付けていたのは、本人がやりたくない事はさせないで、本当にやりたい事だけをやらせるようにした事かなと思います。
- 同級生が怖い、人が怖いという本人の気持ちに共感したこと。
不登校になるまで、世間を意識して子どもの気持ちをそのまま受け止めてあげない親だったことを謝ったこと。
進路選択は本人に任せたこと。
どんな状態でも、あなたのことが大好きで、あなたの親になれて私は幸せだと言い続けたこと。 - 「学校には行かないといけない」「学校に行かないと将来困る」というような、漠然とした固定観念を(なるべく)捨てること。
親以外で子どもを肯定して、サポートしてくれる複数の第3者(Branch含む)と繋がっていたこと。 - 子どものペースを乱さないこと。子どもが興味があることに、自分も興味を持つこと。できれば一緒にやってみること。親の思いでコントロールしようとしない。
親が学校に執着する心、(自分の物差しの普通はこう、こうあるべきみたいな)色々な執着心を手放すこと。信頼できる支援者を探すこと。
親も安心できる場所、しんどさを吐き出せる場所が必要です。branchで同じ立場の保護者さんの話が聞けたり、しんどさをわかってもらえたり。自身のケアだったり、一緒に楽しめる仲間がいるのは、とても大切なことだなぁと実感しています。不登校だとどうしても子どもに気持ちが集中しがちなので、親は親で楽しむことに気持ちを向けられるというか。なぜかbranchの保護者さんと、好きなことが合うのも不思議なところ笑。気分の落ち込みも、意外と気候や天気と関係しているとのが、コミュニティを通してわかったりします。自分だけじゃないんだとわかると、それだけで結構気持ちが楽になるんですよね。なので、新しいスクールカウンセラーさんに会うたびに、branchを布教しています笑。
- Branchで発達特性のある子は実年齢の7割程度の精神年齢と話題があり、たしかに息子を小学入学前くらいと思って接するとうまくいくことが多々あり、分離不安が強かった時は公園でも学校の休み時間でも外出先には全て付き添いました。その頃は息子からも「ボクの遊ぶところ見てて!」と言われていました。途中で甘えて膝に乗ってきても受け入れるようにしました。今は公園、学校、放デイに一人で行けるようになりました。逆に息子を預けて離れて過ごしたり、甘えてきても年相応の自立を促すような態度で接した時は、その場所へは行けなくなってしまいました。
- 子どもの気持ち・やる気を否定しない。
信頼できる人との出会い。
子どもと同じ目線で楽しむ。
⑦登校しぶり、行きしぶりが始まった時に今振り返ってみると、やってよかった対応、失敗した声かけ、対応、などがあれば教えてください。
- 行き渋りの頃を思い返すと、失敗したこと・やらなきゃよかったことばかり思い出されます。。
学校に行くことは大事だ、自分のために行かなければならないものなんだと言い聞かせて、無理矢理行かせ続けたこと。子どもの発しているSOSを見てみぬふりしたこと。話をしっかり聞いてあげなかったこと。
子どもの心が壊れかけているのに、「環境調整で何とかなる」と思ってしまったこと。(支援級に移ったから大丈夫、イヤーマフを使うから大丈夫、担任がこういう工夫をしてくれてるから大丈夫…)学校生活のストレスが原因で起きている問題行動を、療育やSSTで直そうとしたこと。 - 過剰適応になりがちだったので、極力自分に合った合理的配慮をとれるように未満時保育園時代から、毎日先生と連携して、ものすごく提案しておぜん立てして、皆と違っていても大丈夫というのを実感できるようにずーーーっとやり続けてきました。過剰適応になりがちだったけど、それを経験することで、ようやくそこから脱することができて、最終学校に行かないと決めた時点で、鬱になっていない、とても健やかという点で、うまくやれたと思っています。(過剰適応からの鬱状態の不登校のつらい子たちをたくさん知っているので、鬱にしないでフェードアウトすることが目標でした。)
- やらなければよかったと思うこと:泣いている子どもを無理やり登校させたこと。子どもの言葉より、自分や周りの声を優先してしまったこと。子どもの口から「死」という言葉が出るまで、追い詰めてしまったこと。
やってよかったこと:学校を休ませる、安心できる環境に身を置くと決めて実行したこと。子どもを変えようとするのではなく、自分の課題に向き合うようにしたこと。当たり前だと思ってきたことに「なんでだろう?」と、自分に問うこと。 - 行き渋りがあったが、別室登校や保健室登校を試したが、人が大勢いる学校のざわざわした雰囲気そのものがストレスの息子には逆効果だった。やる気を失ってしまった勉強をやらせようとしてしまったが、その後ストレスを取り除き、家で本人が好きなことを自由にさせて過ごさせて、不安感が落ち着くのを見守っている。
- 親に不登校の知識がなく盛大にパニックだったので初動で何一つ良い対応はしてあげられませんでした。
小1の頃、行き渋りを相談した際の担任の先生からの言葉「学校に来れば楽しそうにしているしちゃんとできている、朝のお母さんの一押しが大事」を鵜呑みにして、無理やり学校へ連れて行ったことはとても後悔しています。他の子と比べるような言い方で叱ったことも良くなかったです(他の子は学校に行けている、など)
- 後悔していること:「休みたい」と言われて、簡単に「どうぞ」とはやはり言えない気がしますが、それでももっと早く「もう十分だよ、休もう」と言ってあげればよかったです。
辛い学校へ「頑張って登校したね、えらかったね」などと言ったことも後悔しています。息子が心から楽しいと思えることを応援すれば良かったです。
して良かった対応:行き渋りが始まってから、分離不安と赤ちゃん返りがあったので、添い寝をしてお風呂も一緒に入りました。「ママ、遊ぼう」と言われたら、過集中で付き合うのが大変ですが可能な限り彼の遊びに付き合いました。
5年生に完全不登校となってから再び添い寝をするようになりましたが、寝る前にママと話をしたい、聴いてほしいと言われて毎晩1時間ほどお喋りに付き合いました。半年ほど続きましたが、この期間に、楽しかったり辛かった記憶や体験、彼の思いや考え方をたくさん話してくれて、また、私の子ども時代の思い出なども聞かせてほしいと言われて話しました。息子はたくさん泣いて、怒って、時には笑って、精神的に安定していった感じです。
この時期が終わる頃、「自由に過ごしたい」と言って昼夜の逆転が始まりました(苦笑)
- なぜ学校にいけないのか、聞いてはいけないと分かっていても聞かずにいられませんでした。よかったことは、異常がない時から定期通院していたため、異常時にすぐに病院に行って薬を試せたことです。
- 宿題の強要。行きたくなくても無理に送って行った。物と引き換えに行かせようとした。
先生のところまで引きずって連れて行った。
学校のグループ活動をする際好きなお友達とグループにしてもらった。
…失敗しかしていません。学校に行かない選択を一切認めることが出来ませんでした。
- 幼稚園年長の泊まり保育を行かせなければ良かったと、とても後悔しています。本人は行きたくない、とずっと言ってました。上の子が最初は嫌と行ったけど泊まれた経験もあり、幼稚園の先生達も親と離れたら楽しめる、みたいな対応だったので無理矢理抱っこしてもらって置いて来てしまいました。あの時、娘の言ってる事、気持ちを1番に考えてあげたら良かった、と思います。娘は、2-3年経ってからも、話題に出ると、つい先日あった事のように、「ママや先生を恨む」と激しく怒っていました。
- 勉強の遅れを取り戻そうとか、何かやらせようとか思うときは、たいてい私自身に余裕がない時だとある時気づきました。
自分の焦りと子どもの問題を分けて考えるようにしました。 - 親の私たちに発達障害についての知識がなかった事で、ずいぶんと本人に負担を強いていたと今でも自責の念に駆られています。
その後、発達障害について勉強してそれまでの息子のいわゆる困った行動を理解できたことで、決して学校に行きたくないとは言わなかった息子に対して「学校へ行かない」という選択肢もあるんだよと話せた事は良かったと思います。
また不登校になる前に病院、教育センターと繋がれた事も、親がいちばん苦悩する時期に少しは不安が軽減できたのかなと思います。 - 失敗した対応は、学校にいると吐き気がするようになっていたのに、無理に登校させたことです。
その後不登校になって2年経ちましたが、まだ不安からくる吐き気や腹痛が時々起こります。
こんなに症状を長引かせてしまったこと、また体調が悪くなるのが不安で外出もあまりできなくなってしまったのですが、それは無理矢理登校させてしまったからだと後悔しています。 - 失敗しかない。本人の様子からして、休んだ方がいいと感じていたのに、学校に行けないことを責めてしまった。休みグセをつけると、このままズルズル休むことになるのでは、と恐怖でいっぱいで、親の不安を子供にぶつけていた。自分の時間がなくなるのが嫌だった。結局、親のために我慢しろ、と言っているのと同じだった。
- もっと寄り添って無理させないように声かけをしてあげればよかった。
- 学校を休みたい、塾をやめたい、という言葉をすぐに受け入れ、学校と塾に連絡したこと。
この先どうなるんだろうという不安しかなかったですが、子どもが限界にきていることは分かったので、夫にも伝えて即決しました。 - たくさんありますが一番の失敗は、無理やり登校させたことと、「学校には行かなければいけない」という価値観を押し付けてしまったことです。子どもに不信感と罪悪感を抱かせてしまいました。
- 失敗したのは学校を休んでいるときも学校と同じ時間で行動させたことです。
やって良かったことはオンラインでゲームをさせたことです。
一人でコンピュータ相手にゲームをしているのと、顔は見えないけど同じゲームをやれていることで人との関わりを感じていることに嬉しい気持ちがあるようです。 - 私が不登校経験者である事を伝えて
私の話をしたのは、登校しぶりが
始まった頃でした。私は私立中学で
不登校になり、その後公立に転校し
ましたが3年間通わずに卒業しました。
高校へは行かず、社会に出ました。
息子には学校へ行かなくても社会人
として生きて行ける事、みんなが
当たり前のように持っている学校の
経験がない事がコンプレックスに
なっている事など、私なりにですが
思いを伝えました。本人には安心
材料になったようなので、伝えて
良かった事だと思っています。 - タブレット学習やオンライン講座など、今は学校へ行かなくても学べる時代と思い、焦って取り入れたこと。元気になってきた今でも嫌厭されていて、何もせずゆっくり休ませてあげれば良かったと後悔しています。それから学校へ行けた事を褒めること。再び行けなくなった時の「ボクには褒められるところがない」と落ち込みがひどかったです。労いの声かけはしても、学校へ行く行かないで親は一喜一憂を見せないほうがいいと思いました。
- 今振り返り、反省する事ばかりですが…学校は行って当たり前だという自分の価値観。行かないと困った事になるという自分主体の考え方。他の子と比べるような発言を改めたいです。
息子の状態が最悪の時に、無理に病院へ連れて行き続けたことも、先生への警戒心を強め今の病院嫌いに繋がってしまった原因となってしまいました。 - 行き渋りは入学式直後からあったのですが、学校は行かなきゃならないと思い込んでいたので、親が送迎するなどして何とか通わせていました。今振り返ってみると、あんないじめを受けて傷つくなら最初から学校なんか行かなければ良かった、とも思います。幼少期から発達障害もあり、療育や放課後デイサービスなど色々と通いましたが合っている所が見つからず、フリースクール等の不登校の世界の方が、我が子には合っているように感じます。
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